第8章 原子が秩序を生み出すとき
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小さな貝殻はなぜ美しいか
「生命とは自己複製するシステムである」
貝殻は確かに貝のDNAがもたらした結果ではある
しかし、今、私たちが貝殻を見てそこに感得する質感は「複製」とはまた異なった何物かである
小石も貝殻も、原子が集合して作り出された自然の造形 けれども小さな貝殻が放っている硬質な光には、小石には存在しない美の形式がある
秩序がもたらす美であり、動的なものだけが発することのできる美
動的な秩序
おそらくここに生命を定義しうるもう一つのクライテリアがある
しかしながら、ワトソンたちが鼓舞されたのは、生命現象は最終的にはことごとく物理学あるいは化学の言葉で説明しうる、というシュレーディンガーの総括的な予言に対してであった
本書執筆の時点で、遺伝子についての物質のレベルでわかっていたことはわずかしかなかったし、物理学者シュレーディンガーの生物学に関する知識も限られたものだった
殆どの生物学者がその重要性にまだ気が付かなかったエイブリーの発見が、ダブリンのシュレーディンガーに届くよしもなかった
したがってシュレーディンガーの考察もほとんどが物理学者としての概念的な思考実験にとどまっていた
とはいえ、遺伝子の本体が、デオキシリボ核酸(=DNA)という化学物質であり、その二重らせん構造遺伝子の複製機構を担保するものであるというワトソンとクリックの発見は、シュレーディンガーの、予言の光に満ちた見事な成就だった その一方で、シュレーディンガーが思いを巡らせていた、生命が示すもう一つの重要な局面への省察が、ともすれば陰影のうちに沈むことになってしまったともいえるのである
原始の「平均」的なふるまい
原始はなぜ小さいのか?
『生命とは何か』の冒頭近くのシュレーディンガーの問い
確かに原子一つ一つはまったく小さなもの
だいたい1から2オングストロームであり、オングストロームとは1メートルの百億分の一
生命現象の最小単位の細胞でさえも、その直径はおよそ30万~40万オングストローム さて、原子はなぜそんなに小さいのでしょうか?これは確かに一寸ずるい問いです。というのは、今私が問題にしているのは、実は原子の大きさではないからです。今問題になっているのは、実は生物体の大きさ、特に、われわれ自身の身体の大きさなのです。(中略)かくして、われわれの問いの本当の目的は、二つの長さ――われわれの身体の大きさと原子の大きさ――の比にあることが見究められたのですから、独立的な存在として原子のほうが文句なしに先であることを考えると、先ほどの問いは、本当は次のようになります。われわれの身体は原子にくらべて、なぜ、そんなにおおきくなければならないのでしょうか?と。
このあとシュレーディンガーは、いくつかの例を挙げて、原子の"ふるまい"が、一般的にいって、絶えずまったく無秩序な熱運動に翻弄されている様を示す 原子そのものの動きを直接見ることはできないが、小さくて軽い粒子、たとえば水面に浮かぶ花粉由来の微粒子や空気中に浮かぶ霧の動きなら顕微鏡を使って追うことができる
粒子は絶え間なく非常に不規則な動きをしていることがわかる
微粒子は、その周りに存在する見えない原子(花粉の例では水分子、霧の例では気体分子)にあちこちとこづきまわされて絶えず揺らいでいる
それでも霧の水滴の場合、重力に引きずられているので全体を平均すると徐々に地表へと落下してくる
彼はこの「平均すると」という概念に注意を喚起する
水を満たした四角い容器の隅に色のついた物質(ここでは過マンガン酸カリ)を溶かし入れる
徐々に薄い方へ拡がり、やがて一様に分布する
しかし、"好んで"空いている場所に移動しているわけではなく、そのような力や傾向がここに存在するわけでもない
粒子は水分子の衝突によって絶えずこづきまわされて、予言することのできない方向へ移動していく
全体を平均していみると過マンガン酸カリの粒子は濃度の高い方から低い法へ規則正しい流れを生じさせている
それはまさに各粒子がまったくランダムに動いているからにほかならない
今、四角い容器のある小さな一区画とそれに隣接する小さな一区画を考える
過マンガン酸カリに粒子ひとつひとつは、でたらめな運動によって、右の区画から左の区画へも、左の区画から右の区画へも等しい確率で移動しうる
ここで右の区画の方が左の区画よりもたくさんの過マンガン酸カリを含んでいる場合、境界面を横切って、右から左へ移動する粒子のほうが、その逆より多いことになる
なぜなら、それはただ、でたらめな運動をしている粒子が左方よりも右方によりたくさんあるからだ
そのような動きを全体として平均してみると、右から左へと、つまり濃度の高いほうから低い法へと粒子の流れが存在することになり、これは粒子の分布が一様になるまで続く
シュレーディンガーがなぜこのようなことを説明したのか
物理法則は多数の原子の運動に関する統計学的な記述であること、つまりそれは全体を平均したときにのみ得られる近似的なものにすぎない、という原理を確認したかったのである
われわれの身体がこれほど大きい理由
生命現象もすべては物理の法則に帰順するのであれば、生命を構成する原子もまた絶え間のないランダムな熱運動から免れることはできないことになる
生命は秩序を構築している
その大前提として、"われわれの身体は原子にくらべてずっと大きくなければならない"というのである
それはすべての秩序ある現象は、膨大な数の原子が一緒になって行動する場合にはじめて、その「平均」的なふるまいとして顕在化するから
原子の「平均」的なふるまいは、統計学的な法則にしたがう
そしてその法則の精度は、関係する原子の数が増せば増すほど増大する
ランダムの中から秩序が立ち上がるというのは、実にこのようにして、集団の中である一定の傾向を示す原子の平均的な頻度として起こること
ここで百個の微粒子からなる集団を考える
彼らが水中に分散されていれば、ブラウン運動によって常にランダムに揺れ動いている
これらの微粒子を空気中にばらまいたとする
先にシュレーディンガーが挙げた霧の例と同様、微粒子は空気中の分子にこづきまわされながら、四方八方にさまよいつつも重力の影響を受けて「平均」としては、下方に落下していく
別の実験として、百個の微粒子を、水を張った四角い容器の右隅に溶かしこんだ場合を想定してみる
この場合も、微粒子は水分子と衝突してランダムにたゆたいながらも、先に記した拡散の原理によって、「平均」としては、徐々に濃度の薄い左方向へ広がっていくだろう
では、今、このような粒子のふるまいを「平均」ではなく個々に、ある一瞬だけ、正確に観測してみることができたとしよう
すると、百個の微粒子の大多数は、空気中にばらまかれれば落下しているはずだし、水溶液の一隅に溶かし込まれれば濃度の薄い方向へ拡散しているはずだ
が、観測したその一瞬をとってみれば、粒子のうちいくつかは、この法則から外れて、落下ではなく上昇しているもの、あるいは濃度の薄い方向から濃い方向へ逆行しているものがあるはず
つまり、百個の粒子があれば、そのうちおよそルート100、すなわち10個程度の粒子は、平均から外れた振る舞いをしていることが見いだされる
これは純粋に統計学から導かれること
さて、仮に、たった百個の原子から成り立つ生命体を考えてみよう
この生命体は、どのような生命活動を行うにせよ、原子のうち常にルート100、すなわち10個程度の粒子は、その活動から外れることを覚悟しなくてはならない
全体が100で例外が10ならば、生命は常に10%の誤差率で不正確さを被ることになる
これは高度な秩序を要求される生命活動において文字通り致命的な精度となるだろう
では生命体が百万個の原子から構成されているとする
平均から外れる粒子数はルート100万、すなわち1000
誤差率は0.1%となり、格段に下がる
実際の生命現象では、百万どころかその何億倍もの原子と分子が参画している
生命体が、原子一つに比べてずっと大きい物理学上の理由がここにあるとシュレーディンガーは指摘したのだ
生命現象に参加する粒子が少なければ、平均的なふるまいから外れる粒子の寄与、つまり誤差率が高くなる
粒子の数が増えれば増えるほど平方根の法則によって誤差率は急激に低下させうる
生命現象を縛る物理的な制約
実際、生命の発生段階における基本的な形態形成に拡散の原理が重要な役割を果たしていることが、最近になってわかってきている
中央に背骨が走っており、それを中心線にして左右対称の構造をしている 背骨には分節構造があり、神経の配線もこの分節にしたがって仕分けされている
無脊椎動物についても広く、中心線とそれに沿った分節構造が存在するという基本デザインは共通している 俗流進化論では次のように説明するはずだ
突然変異に方向性はなくランダムに起こる
生命の歴史のあるとき、分節をもつ生物が生み出された
分節を持つ生物はより環境に適合し、分節を持たない生物との生存競争に打ち勝ち、今日、あまねく分節を持つ生物が広がった
しかし私は、現存する生物の特性、特に形態の特徴のすべてに進化論的原理、つまり自然淘汰の結果、ランダムな変異が選抜されたと考えることは、生命の多様性をあまりに単純化する思考であり、大いなる危惧を感じる むしろ、生物の形態形成には、一定の物理的な枠組み、物理的な制約があり、それにしたがって構築された必然の結果と考えたほうがよい局面がたくさんあると思える
分節もその例
産み落とされた卵は、分裂を繰り返し徐々に形を作り上げていく
ハエである以上、やがて小さな蛆虫となる
蛆虫にはすでに立派な、きめ細やかな分節構造がある
細胞分裂が進行し、細胞の塊がいよいよ幼虫になるその一歩手前
細胞塊はラグビーボールのような紡錘形をしている
将来どちらの側が頭になり、どちらの側が尾になるか、この段階ですでに決められている
このとき、頭になる側の細胞から、ビコイド(bicoid)と呼ばれる特別な分子が放出され、速やかに拡散を開始する ビコイドは発生段階のわずかな一瞬だけ放出されるが、ランダムな熱運動を凌駕するに足る分子数があるので、"平均すると"、頭から尾にかけて美しい濃度勾配を形成することになる ビコイドはそれに触れた細胞に対して、次の段階の分化命令を与えるシグナルとして働く
ここが不思議なところだが、細胞の側にはおそらくビコイドに対する感受性に段階的な閾値が存在するのだろう、ビコイドの濃度勾配に対して階段状の応答を示してそれぞれ分化を開始する
それが結果的に蛆虫の各分節を形成することになる
一方、ビコイドの濃度勾配をラグビーボールの背中側から見ると、拡散は縦方向だけでなく、左右にも均等に広がっていくことになる
これが分化のシグナルの左右対称性を与えることになる
このような現象を目の当たりにすると、生物が示す形態形成の根拠には、分子の拡散がもたらす濃度勾配やその空間的な拡がりなど、ある一定の物理学的な枠組みがあることが見て取れる
それは決してランダムな試行と環境によるセレクションによるものではなく、そのような淘汰作用よりも下位の次元であらかじめ決定されていることなのである
ランダムなのはむしろそとのきの原子や分子のふるまいであり、その中からいかに秩序が抽出しうるかが問題となる
そのための大前提として、いみじくもシュレーディンガーが看破したように、原子に対して生物は圧倒的に大きな存在である必要がある
生命はなぜ動的な秩序を維持できるのか
生命は物理学的な枠組みの中に自らをしたがわせつつも、単に、その熱運動に身を委ねているわけではなく、そこから複雑な秩序を生み出している
その秩序のありようが貝殻を小石から峻別している
しかも生きている貝は、成長に応じてその貝殻の文様をも拡大できる
つまりその秩序は動的なもの
むろん、シュレーディンガーもそのことにきわめて自覚的だった
拡散はその途上では濃度勾配という情報をもたらすが、やがては一様に広がり平衡状態に達する
これは物質の勾配のみならず、温度の分布、エネルギーの分布、あるいは化学ポテンシャルと呼ばれる反応性の傾向も、すみやかにその差が解消されて均一化する いわばその世界の死
物理学者は自分のう世界をしばしば"系(システム)"と呼ぶ エントロピーとは乱雑さ(ランダムさ)を表す尺度
すべての物理学的プロセスは、物質の拡散が均一なランダム状態に達するように、エントロピー最大の方向へ動き、そこに達して終わる
ところが生物は、自力では動けなくなる「平衡」状態に陥ることを免れているように見える
もちろん生物にも死があり、それは文字通り生命という系の死、エントロピー最大の状態となる
しかし生命は、通常の無生物的な反応系がエントロピー最大の状態になるのよりもずっと長い時間、少なくともヒトの場合であれば何十年もの間、熱力学的平衡状態にまではまり込んでしまうことがない
つまり生命は、「現に存在する秩序がその秩序自身を維持していく能力と秩序ある現象を新たに生み出す能力をもっている」ということになる
このようなことはどのようにして実現できるだろうか
シュレーディンガーはこの疑問に対して具体的なメカニズムを示すことはできなかった
しかし次のように予言した
生命には、これまで物理学が知っていた統計学的な法則とはまったく別の原理が存在しているに違いない
その仕組は、しかし、エンテレキー(生命力)といった比物理学的な、超自然的なものではない それはわれわれがまだ知らない新しい「仕掛け」であるが、それもまたわかってみれば物理学的な原理にしたがうものであるはずだ
その代わり、シュレーディンガーは、エントロピー増大の法則に抗して、秩序を構築できる方法のひとつとして、「負のエントロピー」という概念を提示した エントロピーがランダムさの尺度であるなら、負のエントロピーはランダムさの逆、つまり「秩序」そのもの
生きている生命は絶えずエントロピーを増大させつつある
つまり、死の状態を意味するエントロピー最大という危険な状態に近づいていく傾向がある
生物がこのような状態に陥らないようにする、すなわち生き続けていくための唯一の方法は、周囲の環境から負のエントロピー=秩序を取り入れることである
実際、生物は常に負のエントロピーを"食べる"ことによって生きている
シュレーディンガーは、これが単なる比喩ではないとして次のように述べた
事実、高等動物の場合には、それらの動物が食料としている秩序の高いものをわれわれはよく知っているわけです。すなわち、多かれ少なかれ複雑な有機化合物の形をしているきわめて秩序の整った状態の物質が高等動物の食料として役立っているのです。それは動物に利用されると、もっとずっと秩序の下落した形に変わります。
シュレーディンガーはここで誤りを犯した
この考えはナイーブすぎた
実は生命は、食物に含まれている有機高分子の秩序を負のエントロピーの源として取り入れているのではない
生物は、その消化プロセスにおいて、タンパク質にせよ、炭水化物にせよ、有機高分子に含まれているはずの秩序をことごとく分解し、そこに含まれる情報をむざむざ捨ててから吸収している
なぜなら、その秩序とは、他の生物の情報であったものであり、自分自身にとってはノイズになりうるものだから
とはいえ、シュレーディンガーの省察のうち、食べることが、エントロピー増大に抗する力を生み出すという部分は、彼の意識のレベルにかかわらず、的確なものであった